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日本語2026-06-26

「キ」の字を探して——基隆・義重町が語る、征服と再生の100年

基隆・義二路の古いビルの切妻に「キ」の字がある。1895年に広島から渡った岸田幾太郎——岸田文雄元首相の曾祖父——が建てた呉服店の痕跡。建物も「キ」の字も今も残っている。

「キ」の字を探して——基隆・義重町が語る、征服と再生の100年

壁の「キ」——義重町と岸田呉服店の誕生

義二路を歩くほとんどの人は、頭を上げない。

古いビルが並ぶ通り、赤レンガに白い装飾帯、丸アーチの窓。観光ガイドには「雰囲気のある食の通り」とだけ書かれている。でもビルの切妻——屋根の三角部分——をよく見ると、カタカナが一文字刻まれている。「キ」。

日本人なら読める。でもこの「キ」が何を意味するのか、ほとんどの人は知らない。

1895年、馬関条約で台湾が日本に割譲されたその年に、広島出身の岸田幾太郎が基隆に渡ってきた。彼が義重町(現・義二路)に建てたのが「岸田呉服店」——切妻の「キ」は、岸田の頭文字だ。

この岸田幾太郎、2021年に就任した日本の第100代首相・岸田文雄の曾祖父にあたる。首相就任のとき、台湾のメディアが一斉にこの縁を特集した。記事の中に、「キ」の字の写真があった。

日本植民地政府は義重町を台湾版「銀座」として整備した。赤レンガのアーケード、ヨーロッパ古典様式の建築、鈴蘭灯。基隆は当時、台湾最大の貿易港だった。その玄関口で、日本から渡ってきた商人たちが商売を繰り広げた。

岸田幾太郎は1899年に広島へ帰国した。だが「キ」は壁に残り、店は商業パートナーが引き継いで営業を続けた。隣には「岸田喫茶部」も開いた。1930年代に義重町は全盛期を迎え、台湾中から洋服や眼鏡、洋菓子を求める人が集まってきた。

同じ角、三度の主人交代

1945年、日本が敗戦して岸田家は引き揚げた。

「キ」の字が刻まれたビルの2階に、台湾人コックが入居した。「小上海酒家(リトルシャンハイ)」の開業だ。タイミングは絶妙だった。九份・金瓜石の金鉱がちょうど最後の輝きを見せていた時期で、財を成した鉱山主たちが山を下りてきて、金を使える場所を求めていた。

皮肉な光景だった。建物はまだ植民者が建てたままの姿で、「キ」の字も壁に残ったまま。でも迎える側は、その日本人を追い出したばかりの台湾人だった。言語が変わり、旗が変わり、建物は変わらなかった。

酒家は1951年に閉業した。金鉱も、ほぼ同じ時期に底をついた。

ちょうどその頃——1947年、228事件から数ヶ月後——除隊した軍人の陳上惠と仲間の周君平が、基隆に書店を開こうと決意していた。日本統治時代、台湾には繁体字の中国語書店がほとんどなかった。資金がない。陳上惠は妻の装飾品を売り払い、10万旧台湾元を工面した。

「自立書店」はこうして生まれた。

陳上惠は1963年に建物全体を買い取った。書店は彼が亡くなるまで70年以上続いた。子どもの頃から通い続け、そのまま祖父母になった常連客がいた。

アクセス・実用情報

場所: 基隆市中正区義二路・信二路交差点付近(信二路290-1そば)

基隆駅から歩いて約10〜15分。バスなら101・104・105系統で中正公園付近下車。義二路の通りは終日自由に歩けて、外観見学は無料だ。

「キ」を見つけるコツは、義二路と信二路の交差点に近い建物の切妻を見上げることだ。赤レンガの通りの喧騒の中で、静かに残っている。

建物の外観は今もほぼ保存されている——ビクトリア様式の赤レンガ、丸アーチの窓、高い切妻。1階は現在飲食店が入っていて、テナントは入れ替わっているようだ。自立書店はもうない。

参考資料

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